同じだけど違う私たち

上の感慨にもならない雑感に補足すると、江國氏の小説にしても、高橋源一郎氏の小説にしても(上の本屋さんから出ている。通は後者の英訳がすばらしいと言っている。私は両方いいと思う。)、North Americaの中のトロントで得た感触としては、私たちと同じ時代に生きていてだいたい似たような悩みや悩み方をしている、そして経済常識もほぼあっている、その上で、ただ少しNorth Aとはいささか違うスタイルがそこにはあるらしい、といった感じで評されているって感じがとてもした。

この点が幾度繰り返しても足らないほど重要だと私は思うのだ。従来は、NAを標準と見なし、それに対しての異質点としての日本、という視点が先にたって、なんでもまずジャパンものだった気がする。通常のジャンル分けではなくて。そこから、そういうことじゃなくてベースは一緒で、でもいくらか異なるスタイルの社会があるぐらいの認識になった、か、なり得る可能性がそこに見えかくれしているって感じがするわけ。

で、これはつまり、NAという地域を限定して考えている人がいるということ。ここを世界にせずに。あるいは、みんなこうなるのだ、というそのデフォルトの輸出元だとの意識=帝国、というのではない意識を持った人がいるようだ、ということ。

そして、それにもかかわらず他リージョンの人々が徹底的な異質性によって覆われているのではなく、ま、似たりよったりと見えること。こう書くと西欧世界の勝利かぁとか言い出す人もいるんだろうとけど、私はそれは西欧というよりも、身分制秩序を崩壊させてしまった後の自生的、自律的な変化として捉えることも可能なのじゃないかと考えているわけ。要らないことをいえば、日本の中の少なからぬ人ことに文字に偏している人がかなり広範囲におちいっている誤りは西欧も西洋も元々ばらばらな上にその上あちらこちらの変化が他者を引き出しつつ戻りつつ耐えず変化してきているということをあまりにも意識しなさすぎることじゃないかと思う。ここが頑強なブレーキになって考察を阻んでいるのじゃないかと不遜ながら川上直子のある種のライフワーク的興味関心はそこらへんを解明したいんだよぉ、にあったりもする。

それはともかくNAにある種の変化の兆しがもしあるとするならば(今のところトロントにつぼみがあるだけかもしれないが)、こうなる1つの理由は、対日本、対アジアではなくて、私はむしろヨーロッパとの異質性に気づいた、あるいはようやく納得した人々の存在じゃないかと思う。あそこと一緒だと設定するから今のスタンダードが世界常識と見なし得るわけだが(日本はこの認識にいる。欧米が、と言いながら)、あそことは違うのだと考え出したら、いろんなことに使用できる枠組みはリージョンぐらいになる他はない。で、昨年来の戦争によって入った欧米の亀裂って、意図は世界制覇だったかもしれないけど、結果は逆に地域性活性化になるのかも。ま、個人的にもアメリカにはアメリカらしく行ってほしいよ。帝国の主なんつー柄じゃねーんだからさ。