似てるけど違うアメリカとカナダその他雑言

「終わらない棒倒し」を読まれた方からメールを頂く。とてもうれしい。ありがとうございます。励みになります。

http://www.shobunsha.co.jp/html/owaranai/

しかし、とてもとてもうれしいのだが、あらまただわ、でもあった。それはまたまた在外の日本人の方からだったから。日本の日本人の方に向かって書いているつもりの私としては、筆者努力が足りませんなのかしらと考えさせられる。

そして、この方は、というか、実のところこの方も、アメリカに住んでらして、アメリカ人にならなければならない的ムードに困惑してらっしゃって、カナダとのそれを考える、といったところでメールをくださっている。

私としてはここを読んでくださってとてもうれしい。といって別に、アメリカよりカナダの方がエライだろーなんてことを言いたいのではなくて、これを近代における個人と国家ってな〜に?ということを考えるきっかけにしてくれる人がいるといいなぁと思って書いているから。日本人にとってのそれを私も考えている。

多分カナダはいろんな意味で近代に対してかなり正攻法を取っているという見取りを私はしている。で、もちろんアメリカもそうだったはずなのに、どこからか、端から見ると前近代的自我に戻ってる人が増えた。アメリカ人だからアメリカ人、の意味が、血統に基づくもののように針が触れている。しかしそれは擬似的、神話的にならざるを得ない。

が、ここらへんが難しいのは、では残りの人は一概にアメリカ人を責められるのか、という問題が残るから。というのは、回りの人びとは、私はマイノリティですといって、民族、血統、伝統で自分が決まっているようなことを簡単にいいちらかすから。これは個人レベルで見た時全然フェアではない。90年代後半にそれを見ていて私は絶対アメリカ人がやがて暴発すると思った。仕掛けか?とまで思ったし今も部分的にはそう思ってる。内部に亀裂を入れる、入れる、みたいな感じ。

カナダはその亀裂を結構上手に消してると思う。といって国策で言論を封じ込めるなんてことではなくて、問題を個人レベルで考えようとするからだろうと思う。民族色豊かに生きたいも生きたくないもあなたの勝手ですが、他の人にそれを強要するのはご法度です、が頭の中で徹底してる人が多い。だから共同体志向の人は固まるなら固まれば、なんだろうと思う。だけど法的にはそういうあんたも個人だからね、と。

話しは全然繋がってないけど、マルチカルチャーつながりで、「文化に優劣はない」とカナダが宣言しているというのは、それを決するauthorityをこの国は持ちません、っていう、ある種の判定放棄宣言だと考えてもいいと私は思うのだが、時々とても辛い考えを持っている人に巡り会う。

Aが出ていたら、BもCもDも同じく目立たないとならない、それを国がやるべきだ、といった見解。これって実質上無理なんだし、そんなシェアを望むことそのものがauthorityが好き、authorityが管理しないと私は生きてる気がしません、満足できませんって言っているようなもので、とても個人的でない。

(やりたきゃ自分でやれと言われるだろう。だから各民族名の付されたナントカ・タウンというのが発生するのだな。トロントにはほぼ日本人固まりは存在しませんので日本人は必然的に個人的になるかもしれない。あはは。私はだいたいこれでいい。でも若い子とかは、なんでコリアン、チャイナがあるのに私のはないのか?と言っているんだが、しばらく滞在するうちにそのうちなんとも思わなくなるようだ。)

とはいえ、個人にはかならずルーツなり背景なりというのがあるんだから、それがまったくないと感じられる人がいたとしたら、それは作為的な自我形成だ。精神衛生上全然よくない。もちろん、捏造した自己が好きな人はそれでもいいけど、そんなに無理しない方がいいんじゃない?とだいたいそんなぐあいに考えられているっぽい。とても自然だと思うんだけど、どうだろう?

ものすごくついでに、日本語環境で見るカナダというのは、大自然万歳か、さもなければ妙に再分配型、つまり社会主義的でかつ多文化主義万歳的な論考、もしくは本というものの大きく二手に別れている気がするのだが、これはカナダがそうだというよりも、日本で言論活動を行い得る能力及び機会があり、かつカナダに興味のある人がこの二手だからだ、と考える方が全く正しいと思う。

それはつまり、どうあれレーガンの葬儀が日本流の解釈の中に閉じ込められるのと一緒。

不詳川上は、日本語環境にとってのオープン・カナダを目指している模様。ホントか? しかしこれはくどいようですが、カナダをオープンではありません、あくまで日本語環境にとっての、です。なにを演説しているのだ、私は(笑)。