呪文というのはあるのだ/NYタイムスを見てふと、合成の誤謬か?

しかしなんというか、次から次からもう・・・ではあるけど、これがつまり、かなりミニミニ版ではあるにせよ、戦争加担者の宿命ってことではあるのだろう。

考えてみればこういうことをずっとアメリカは体験しているわけだ。兵隊とジャーナリストは違うと考えることもできるけど、そのへんに生きた(liveは暮らすでも生きるでもある)にいちゃんたちが戦争が行われている場で死ぬという意味では、感情が死んでいない人にとって、同じものになるだろう。

もちろん、であれば戦下の赤ん坊に降りかかる運命も考えろよと言いたいわけだが、この件に関しては私は1997年からアメリカを、その国策だけではなく、非常に多くのアメリカ人をも含めてほぼ信用していない。

というのは、この当時に、イラク攻撃が噂された時(非常に多くの人は健忘症だと思う、日本でもアメリカでも。2001年9月11日と10年前の湾岸戦争だけがイラク戦に関するすべてでは全然ない)、「イラクの赤ん坊の上に爆弾を落とすな」というのが、ある種のキャッチフレーズになっていた。学生などは当然のように、そうだそうだ、になっていた。私は偶々その当時アメリカの大学にいたのでその感じをとてもよく覚えている。そうして付近の大学や、その他大学生たちの友達の友達の・・・なんだかただの大学生繋がりなんだかしらないが学生たちは結構この状況をよくしっていた。学生でないおっさんが学校の近くのコーヒー屋で論じていたのも記憶にある。

そのある時期、オルブライト国務長官はこの件で各地のコミュニティで討議することになった。そして彼女は最初、イラクの赤ん坊に何の罪があるのだ、との反論に効果的に対応できなかった。明確に言い淀んだ。

しかし次の街では、それを「まずい対応だ」と責められたのだろう、ケーブルテレビで、新聞でこの討論は注目されていたのだから、彼女とその周辺は立派に対話の筋を整え、つまるところディベートで勝った。

勝つとは何を意味するか。彼女は、イラクの赤ん坊が死ぬのは、それはかわいそうだが、その国に生まれたのだから仕方がない、というしかなかった。

私は、未だにこの「結果」はアメリカに影響し続けていると思う。ここを蒸し返せないのだ。「それはextremeだ」(極端だ)と言って。しかし人の命を左右することのどこにextremeでないものがあるのだ?