テーマを固有性と立てるか?/Governmentとお国<続々>

今見たら、「はてな」にコメントがついていた。珍しい。
昨日の分です。
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20040425


で、なるほどと思ったのは、今回の日本の一連の動きを日本の「固有性」と見る人がいるわけですね。

実はここ以外でも個人的にそういう見解を表明された方を知っている。だからなるほどなとは思う。


しかし、固有性ってなんでしょう? 遺伝的にどうしてもそうにしかならないものでない限りすべては変化は可能なわけで、ここには事象としてカテゴライズされるものは普通入らない。

[追記:入らないというより、反復性がいついかなる時でも保証される事象という事象を求めることはもともとできないわけだ;相手も、所も時も違うわけだから;したがって固有性という語はそもそもとても曖昧な使用にしか耐えないと考えるべきなのだろう。モノに使用できるのはデータの取り方として系が限られているからだろうね]

従って、事象Aが固有だとみなされる時それは、多くの人に支持(特に意識的である必要はない)されている、あるいはそう行為するよう条件付けられているから100年前も10年前も今もそうなっていると分解されるでしょう。

で、前からこだわっているけど、感謝と謝罪の周縁が重なっていることとか、お正月と聞いたらどうしても落ち付かず、カナダにもお正月はありますよね?と言いだす心性を宿す人を多く持っているといったことは、上の分解を通じても見いだせる、日本の固有性と言っていいかもしれない。

[追記2:上述の追記に照らして、これはとても曖昧な言い方。以下同様]

が、政治的な解決法について私はたちにはそれほど固有のものってあるのだろうか? それがまず第一。そしてそれで過不足はないのかが第二。

また、固有であるとみなした場合、それは守るべきなのか、それとも変えるべきなのかも問題だ。

そんなことを考えると次の例を思い出す。

「日本語ではこういいます」という言い方で説明するたびに私はいつもどこかで、この説明は半分だ、足りてないと考えている。

こうもいいます。でもこうも言えます。あなたのでも間違いではないです。ただ私はこれがこの場に対してふさわしいと思います、これが正解だろうと思うのだ。

固有のものか否かの話は、「日本語ではこういいます」を、匿名性にゆだねて互いに強制しあっている話かも。

わかりにくい言い方ですね。これは今後のテーマとします。