非関税障壁の最たるものか?/「おわびと感謝」

「テロリスト」に誘拐された「懲罰」という、ものすごい責任論が流行っている日本ですが、「自己責任」論が、もし意図的に流されたものなら、これを流した人はすごいよなぁ〜と思う。2つの意味で。

1つは、日本人の多くがこれにのりやすいことをよくわかっていること。
伝統的に、そして近年の金融政策、雇用環境の変化によってもたらされた新しいキャッチフレーズとして。

もう1つは、これを覆すロジックを持つ主要なグループがこの国にはないことを知っていること。

自己責任論に叛旗を翻しているのは、大方の予想通りいわゆる左翼グループにある人たちなのだが、この人たちの弱点は、国家を自分を含めた国民=nationのものとして、要するに国家を敵対しないで見ようという発想に欠けていること。

彼らの見解は最後には、国家とはこのように恐ろしいものなのです、で終わってしまう(控えめに言って、そういうことが多い)。

恐ろしいものにしないためには、近代国家の本義を語って、このようなことをさせるのは日本の国民として認められないと発想することも可能なわけだが、それを言うためには、自分が深くその国民である自覚と充足感が無ければ成り立たない。つまるところ、どんな意味でもナショナリストでなければそれを言えない。

しかしこれのない時、怒って、結果的にはまたぞろ、国家とは恐ろしいものなのです、になって、人々をして、日本人であるかどうかなんてことよりも人として正しいことをすればいいのだ、という方向に誘う。

「日本人であるかどうかなんて関係ないんです、まず人として」と言うのは私は原初的には望ましい見解だと思う。

しかし、それがどれだけ「主観的」なことかを私たちの多くは失念している。

たとえば、どこかの紛争地でであって個人Aが良きことをなした。その際に「日本人かどうかなんてことじゃないです、私は私として」とAが言ったとする。しかし、そこにいた個人Bは、「あの日本人が」とAを名指しするかもしれない。Aにはこれを拒否する権利はない。人の視点を変える権利が誰にもないとすれば。

私が私であるとは、私が思う私であることではない。私は他人が思う私との折り合いの中で自在であると私がそれを認められることだ。

左翼を批判した文脈で言うのもなんだが、私はこれをサルトルに習ったつもりでいる…。法相宗にも習った気がするが。

ナショナリストであることは、近代人にとって、多分、一種の「諦め」であり、だからこその出発点なのじゃないのかしら。ここはサルトルじゃないです(笑)。