続・「明治維新と好ましい誤解」
「明治維新と好ましい誤解」問題はちょっと置くとして、この誤解は、今も続い
ているのではないかと思う。
それは例えば、
先週、田中宇宙の宇さんが言っていた次の文言をどう取り扱うかといった問題と
して整理できるだろう。
★スペイン列車テロの深層
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そして、テロが「政治の道具」になる傾向が強まると同時に、テロをめぐる世界のマスコミ報道に対する信頼性も落ちた。そのことが、テロに対する分析を難しくする3つ目の要因である。テロ事件でイスラム教の青年が捕まると
「青年は、ビンラディンの右腕である○○とつながりがあった」「アフガニスタンに行ったことがある」などという英文報道が大量に流されるが、それらを大方読んでも、その青年について非常に詳しくなるだけで、事件の本質が何な のか納得できない。
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とても同意。とにかく英語圏で出回っている情報を真剣に読めば読むほど、あるいは接すれば接するほど一つの疑問につきあたる。それは「それでいったい、だからなんだ?」だ。
テロリストだとかアルカイダだとかいろいろと関係者、関連者、そうらしいああらしいという「情報」は出て来るのだが、殆どまったく決定打はない。だってそうでしょ、裁判なりがあるわけじゃないのだから。
だからすべからく「印象有罪」とでも言った状況になっているとまとめるのは妥当だと思う。
これが英語圏の現状。
問題はこれを「翻訳」している日本。「〜が関係があると、Aが伝えている」と書き、Aが英語圏で名だたるメディアだった場合、日本語圏でもたらされる印象はどういうものになるか。
英語圏と平行している人は、文言通りそう受け止めるだろう。しかし、平行していない人は、ま、「邪推」と言われればそれまでですが、「Aが伝えている」内容そのものをかなりのところ「信じて」しまうのではないですか?
しかし、もしAに当たるのが、例えば川上直子が、だったり、イラクのxxx通信という聞いたこともないようなものなら誰も信じませんね。この差はなんでしょ
う?
Aは確証があるはずだ、なぜならそれがクォリティだ、とまぁそれは概算ではそうなのでしょう。しかし個別のケースにあてはまるとは限らない。ここに全体としての因果律をあてはめることはできないだろう。
しかしこのことは、現状、からしか推論できない。
やっかいな話ですね。