幸福機会の減少と陰陽

今年は一体どうしちゃったのでしょう?
ものすごく暖かい。昨日なんて10度ぐらいになってどうしていいかわからなかった。もう春だっけか?とバカなことを思い、にわかに「新春」の春の字が頭の中で大きくなっていくのがわかった。

旧暦と差から考えれば今が春であると捉えるニュアンスは失せるのだが、しかし、感覚的には、陰極まって陽の方に進むのだ、という把握はとてもわかるし、これを論理化した人は素晴らしいと改めて思う。でもって、論理化の出来でいえば陰陽にとどめを指すとしても、結局この不思議な感触が身体から離れない人びとが、いわゆる天文に興味を示し、どうなってんだろうかーと日夜観察に励み、かつ幾何に勤しんだという結果があるのだろうと思う。いやいや、感覚はバカにはできないわけですよ。

しかしながら、私たちの不幸は、そのような時間無制限興味一本勝負式の時代の「産物」に囲まれて暮らしていることなのじゃないか。これは一般には幸福と呼ばれるわけだが、ものは言い様というものじゃないかと私は思う。

どのみち人間の生活なんてどうやっても自分とその周囲の人びとの心地よい、幸福、気持ちいい、嬉しいというプラスの感情が増大しているのが望ましく、逆はあんましうれしくないな、ぐらいの、かなりの適当さに支配されている。この感情を支えるのは身体だ。身体を移動させないと、これは得られない。

であれば、ここで、お月様がどうなるか観察してみるぅ?みたいな行為がワクワクするものとして存在しないということは、経験可能な事象が一つ減る、幸福機会を失うだけのみならず、「そんなものは本に出ている通りです」と誰かに直ちに行為への道を閉ざされるという意味で二重に幸福機会を奪われているとも言える。

わけても深刻なのはインターネットの登場によって、本屋に行って探し物をするとか、大きい図書館に行って困惑してみるといった行為すら否定されていることかも。誰かに会って、半端かも嘘かも知れない情報を得る、というのも漸減しますね。

というわけで、いやいや、便利になったというけどもさ、私としては、逆に幸福だと感じ得る機会の減少によって、不幸とすら感じれらない不幸が蔓延する可能性もあるのじゃないかと思ったりした。

仕方がないので、月でも見るか、と思ったら今日は朝から曇り。1月3日真夜中近くの空はただ薄墨を流した上に墨汁をこぼしたみたいに、まだらに黒い。