それでも巡礼者の群れは続く

ロスとパリ間のAir Franceの定期便運行中止だそうだ(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031225-00001009-mai-int)。

米国当局が「チェニジア国籍の疑いのある人物」が乗ってるかもしれない、アルカイダによる航空機を使ったテロに繋がる確率は高いとの情報をフランスに伝えたことによる。と、しかし、ロスでの着陸を認めないと米側が主張する限り、フランスが踏んばってもどうにもならないだろう。

だから、見出しからするとフランスが判断したものみたいだが、アメリカが判断したも同然だと考えてもいいように見える。

航空機を使ってテロが起こる可能性が高い、のか、航空機を使ってテロが起こる可能性のある世界をつくり出している可能性が高いのか、よくわからなくなってきた。

航空機がツールとして使われるのはとても象徴的なのだろう。インターネットのおかげで、人びとは何の気なしに国境もなく情報が行き交いグローバルな世界になった、と口にするようになったが、実際にはインターネットはなにも運ばない。モノ(人を含む)の運行には従来通りの壁がある。そして個々のインターフェイスには人が立ち会う。彼ら一人一人の振る舞いを統治することは不可能だ。その意味で、私たちは、航空機の離発着のたびに、グローバリズムを頭上に抱きつつ、ナショナリズムに阻まれ、裁量権の曖昧な個人による曖昧で、場合によっては杜撰な判断という頼りなさに身を置くことを余儀なくされる。これはこのまま世界ではある。

ということは、だからこそ、個々のインターフェイスでの混乱を回避するための秩序が編まれることが求められ、それを統括するものとしての当局があり、その上位に国家主権があり、そのさらに上位に各種の条約等で定められた国家間の交流に際しての約束ごとがある、いや、あった。

ところが、一発の銃声ならぬ一発のテロ情報ですべてがチャラになる。

グローバリズムとは法秩序への絶対の信頼、というよりそれへの絶対の志向がなければ、絵に書いた餅でしかない。