左対応破壊を志す


お知らせ
http://munaguruma.air-nifty.com/blog/2005/03/signing_off.html#more


むなぐるまさ〜ん! 更新をおやめになるそうです。がっくり。

とうてい安定した状況を持つ私ともいえないんですが、じゃあなんで私は続けているんだろう、とちょっと考えずにはいられない。


ここ数日、むなぐるまさんのところの16日付けの「海外から見る「日本の保守派」の風景」が気になっていて、実は何度か書こうとしているうちにこうなったのはとても悲しい。


今日のエントリーではその「海外」には届かない日本の「保守派」の言論についてとても重要な指摘をされていた。

ただ、こういう記事にアメリカの専門家からチェックが入らないこと、日本からのこのような記事への反論が彼らに届かないこと、などを含め、もっと大きな構造的な問題があることは知っていて欲しいと思います。


そうなんですよね。朝日(たとえばだが)が彼等にとって独自の視点で描いた日本の言論状況なるものがそのまま英語版で配信されて、それを土台に海外での言論が仕上がっていく構造はどうにかしないとならないとは私も思うし、今日非常に多くの日本人は気付いてはいると思うんです。しかし、それをどうしたらいいのかで手詰まりになってる。

(ご興味のある方は是非、「海外から見る「日本の保守派」の風景 」と「お知らせ 」をお読みください。早々にアカウント閉鎖のようですので、急いで!)


ただ、大枠ではこの考察は妥当性を持っているわけだけど、いくらか別の角度から見ることも可能かなと私としては思ったりする。


というのは、朝日なりが作る言論の受け先もまた、もしかしたら朝日なりと同じ人々かもな、と見えるから。つまり、大雑把すぎてあたっているとはいえないけど、あえて簡略化していえば、左から左、言うところのリベラルからリベラルへのキャッチボールは非常にうまく言っているが、発信者の側にもそれ以外がいるように、受信者の側にもそれ以外がいるというのは間違いではない。


私がむなぐるまさんよりもかなり気楽に北米における言論もしくは思想にさらされていられる理由の第一は、そしてここに関係があるだろうと私は考える。


ま、おまえ(私ね)の考えが足らないから気が楽なんだろーが、というのは前提として、それ以外でいえば、私がアカデミアにはいないってのが最も大きな理由じゃないかと思う。


アカデミアの人々は一部の分野を除けば日本で独特であるように北米でも独特だ。


私が北米にいてできることがあるとしたら、この左 to 左、あるいは左対応の大動脈をぶったぎることじゃないかと思ってる。


でもって、雑誌を含む書物の流通の仕方の問題がこの大動脈を補完していた。blogはこの動脈をひきちぎる可能性を持つ最も手っとり早い媒体だ。


しかしその次にでは何が残るのか、ってか、では私たちは何を語るべきなのかってのはなかなか難しい長い長い問いになるんだろうなとは思うけど。