いわゆるチャイナと左翼2系

私がこう書き出すとこの頃の経緯では皮肉と取られるか策略と取られるかする恐れもなしとは言えないのだろうが、いやぁ〜いいなぁこの写真と思った。


In pictures: China's Wealth Gap
http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/picture_gallery/04/asia_pac_china0s_wealth_gap/html/3.stm


BBCのサイトにいつの間にかあがっていたチャイナの貧富の差についての写真集。
みんな圧倒的な存在感がよくわかるいい写真だと思う。いい顔をした人もいれば、ものすごくイヤな顔してる人もいるがそれぞれ表情が生な感じがする。キャプションを読みながら写真を見ると、中にはBBCのもの凄い皮肉ってか、もの凄い悪意を思わないわけにはいかないものもあって、その取り組みは生々しいのだが。


こういう顔をした人って昔は日本にもいたように思うんだが、少しづつ顔が変わって来たんだよなぁとかも思う。なんでしょう、この人間臭さは、と結構感心しているし、その一方で、じゃあ私たちの顔は人間臭くなくなったってことなのかなとか思ってそれはそれで複雑。単なる田舎の人の顔じゃすまないと思うんだな。


しかしこう、タイトルがこうであるからにはそれは勿論「貧」の方にフォーカスがあたっているが、もちろんそういうわけでもない。結構いろんな見方が可能かと思う。が、それはそうだが、やっぱこう、全体の生活レベルとして、なんつーかこう、もうちょっと国民の面倒みたらどうでしょうかと言いたくはなる。だって、そこって、どれだけウソくさかろうとも共産主義の国で起こっていることなわけで・・・。


そういえば、このコミュニズムというワードの使用をめぐってはこっちで結構困ることがある。というのは、ロシアとかその他東欧圏の諸国では、とりあえずいろんな自由はなかったってのはあまねく知られていて、15年前にはそれがもの凄くフィーチャーされて崩壊となったわけだが、時が経ってみれば、ある程度のベネフィットがあったことも結構了解されていると言っていいかなと思う。つまり、国民皆教育的でそれがタダだった(ってか、この考えがすでに変なわけだな、お会計の仕組みが違うんだから)ことによって、適度に能力のある子弟の教育程度はみんななんかものすごい。ロシア人の学歴の高さはつとに知られているし、なんだったかの拍子に、北米から一斉にロシア人が引き上げたらもの凄く困るセクターが一杯あるよなぁ、と誰かが言い出して、そうだそうだ、になったことがあった。(もちろん、そういう人ばっかりではないが)

あと、お医者さんとの関係も、危機的に悪い時代とか部分はあったんだろうけど、お金がないから骨折しても医者には行けないアメリカ人よりよっぽど幸せな体制だったと断言する人は多い。


だから、総体的にみえれば、失敗した仕組みではあるにせよ、なにがしか見るべきものだってあったぞ、と主張する人もいるし、それは適度に受け入れられているかと思う。イデオロギー的に判断するのじゃなくてね、人の生活という側面から見た時の比較基準として、と冷静になれる人だけではあるにせよ。


そして、彼らにとって社会主義またはコミュニズムとはそういうものだ。そこでチャイナのそれもコミュニズムと呼ぶ。例えば、大陸チャイナを、コミュニスト・チャイナと呼んだりする(これを悪口だと書いていた人がどこかにいたんだが、それって被害者意識がすぎないか?)。


が、しかし・・・。と私は思ってしまうのであった。相当違くないですか?と。つまるところ、いかに弱小、いかにボロだったとはいえある程度資本主義=近代主義にさらされた後に起こった事と、そうしたものにあまり関係なく起こった(だったらなぜそれが共産主義なのかという疑問は大いにあるわけだが)違いがあるわけだが、それはあまり多くの人に理解されているようには私には思えない。


昔の人びとは大いに理解していたようで、毛沢東率いる集団を、西欧、アメリカ人たちが、「so-calledコミュニスト」、「いわゆるコミュニスト」と呼んでいたとか、誰だったかドイツ人だったかでコミュニズムに大きなシンパシーを抱いてチャイナに入っていった人が、ここでは誰でも労働者だ、と皮肉った(つまり、この人にとってはドイツ国内での大企業との闘争によって負け続ける労働者なる確固としたイメージ、概算で都市民だな、それがあったのだが、来てみたら農民どころじゃない、誰でもOKだった、ってなことらしい)といったエピソードは何度も読んだ。



多分、ここにある、妙な、うす辛い誤解は、左翼的なものが、フランス革命を出発点として、人は誰でも平等だぁのエモーション領域に根拠を置く(倫理的だと言ってももちろんよい)系統と、社会改良型に根拠を置く系統が同じものだとして語られていることなのではないかと思う。別のものを同じ名前で語っている、と私は思う。


前者の極端な思想的展開がボリシェビズムで、後者が今生きてるいわゆる社会民主系統のものなのだろう。前者をルソーに、後者をベンサム(など)に縁を求めてもいいだろう。


で、ロシアは革命のモメントにフォーカスが置かれ、さらに赤軍の狼藉が取り沙汰されるから前者に分類される方が妥当に見えるのだろうが、基本的に国内政策に限っていえば後者なんだろうと思う。前者を煽るのは国際政策において、と言うべきなのじゃないのかと(であればなおさら前者を手段と捉えているという意味であくまで冷静、政策的ではあるのだ)。周辺諸国からすれば迷惑な話だが。


と、こうやってモデル化しようとするとまたぞろ罠に嵌る。1930年代のチャイナは明らかに後者は求めえない(改良すべき社会が構成されているとは言いがたい)。1945年まで下ってもそうだ。内戦中だ。では前者か。そうかもしれない。しかし、ではその時倒されるべきアンシャン・レジームは何だ? レジームはあったのか? 


とかとか考えてくると、なんでそこにコミュニズムなる、どう考えても資本主義の発展ぐあいと密接でなかったら機能しないものを埋め込んだのだろうか。わからん。全然関係ないのじゃないのかとさえ言いたいものも盛大にある。あと20年ぐらいしたら、いろんなことをいろんな人と語ることが普通になるんだろうが、その時にはこの旗の一件は笑い話になるのではなか蹐Δ??沺△Δ泙?箸錣擦討發蕕い泙靴燭茵△△呂蓮△函


なんにせよ人大杉