ゆく年来る年、そして誕生日

あけましておめでとうございます。


昨年中はみなさまにお会いできて大変うれしゅうございました。virtualもまた出会いだと私は感じております。また、折々にいただいたご声援、ご叱責の数々に深く感謝申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


と、そういう挨拶を書いている私はまだ12月31日のお昼前。多くの人はクリスマスから1/1までお休みだったりするが(ことに学校が)、そういうわけでもない人も多いのでかなり平常営業的な大晦日という感じ。というか、実際そうだ。


さっき日本の夜中の12時を狙って両親に電話をしていたら、もう寝てた(^.^;;。小さい孫たちが昼寝もせずに1日あばれていたので「年越し」をサバイブできなかったことが直接の引き金となって、さらには息子は息子で遅い忘年会というのか、年越しの飲み会続きでぐったり、もうダメだ〜となっていたらしく、あえなく殆ど平常営業的にお早い就寝となった様子。一昔前、大人しかいなかった家族の時代にはみんな宵っ張りで夜通し飲んでいたはずなのだが、それを覚えている(というか、それしかなかった)私にはちょっと寂しいような気もしたが、人生のうちにはこういう時間帯もあるものなのだなとそれはそれで感慨深いものがあった。一族郎党みんな元気らしく私にとってはそれがなにより。


こうやって書いて来てしみじみ思うのだが、一般に「お正月」と呼ばれているこのイベントの主意は、やっぱり、年を越すこと、なのだろうと思うのだ。年なんかどうやっても越えるに決まっているわけだが、心理的にはそうはいかず、今年世話になった人には礼をいい、借金のあった人は返し、人びとはそこで一種のケジメをつけて、新しい時間帯へと突入する。別の言い方では、こうして「年を取る」。年は、個人の誕生日ごとに巡って来るものではなくて、みんないっぺんに取るもの、という昔の年の勘定の仕方は、この「お正月」イベントときちんと対応していた。1)


しかし今こういうことはない。というか、そんな感触のない人もいる。と、そういう人にとって「お正月」というのはどういう意味というか、感触になるのだろうか。お正月といえば神社に行くとか晴れ着を着るという見た目上の行為の諸々は、根っこのところは「年を越す」、越したから「あけ」て、おめでたい、という意味付けが保持されていたわけだが、この根が外れた場合、それら表面上の行為はどういう意味になるのか。神社と来るならそれは宗教的だ、などと考える人もいるかもしれないが、それって多分、この根を失った行事をまとめるのにあたってとてもやり易い理由だったのじゃないのか。


まとまらないが、慣習は変わる、しかし本当に変わるのか、それは意味が変わるのではないのか、しかし意味が変わったのならその慣習自体も変わっていくはずではないのか…などなど今年も興味深く観察しようと思う。今年もどうぞお付きあいくださいませ。みなさまにとって幸多き年となりますように。


1) まさかとは思うが、「数え年」って知ってますか?と言わねばならない時代になったようにも思うので、本物の(笑)老婆心から。「数え年とは」についてまとまってらっしゃるサイトをお借りします。
http://ww4.tiki.ne.jp/〜kameyama/kigann/kazoedosi.htm


[付記]

隊長の12月31日のエントリーの最後。この感じ方が現在ということなのだろうなと、あまりにもgoodなタイミングに驚く。

来年はもう一歩人に任せる生き方をしようかとも思うが、抱負については誕生日までに考えることにしよう。

http://kiri.jblog.org/archives/001300.html#more


世間のつき合いあいとして、行く年をまとめ、しかしながらどこか自分としては誕生日が中心なのではないのかとの疑義を持つ、と。概算で言って私たち(とても大雑把に日本人ってことね)が暮らす時間とはこのようなもののようだ。不調法な言い方をすれば、現在宗教改革モメントをこなしてます、といったところだろう。