物理的に捉える

入国外国人の指紋採取へ・テロ対策の行動計画決定
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20041210AT1E1000410122004.html


ああ、これこれ。日本もそうだけど、まずとっぱじめはアメリカ。なんだかなぁ、おそろしい世の中だと誰しも思う。が、この究極の目標はなんなのか・・・。ま、別に特定の意味でのテロ対策ではないと、誰しもそんなことを思っているだろうけど、そうだと思う。


と、この間アメリカに住んでる友達と話したときに、これはやっぱさ、ある種の人海作戦に対する対抗措置なんじゃないのか、貨物船の底から人が飛び出してきちゃいます、というような案件を目の前にすると、どうやったら安定した統治機構を作れるのかに対して従来考えられてきた、証言と紙、法と秩序と教育と、というモデルが信用できなくなるのじゃないのか・・・と、そういうことになった。


そんなふうに信用を醸成できなくなるのは私だっていやだが、某嬢Aと某夫人Bの考えはわからないことはない。


どうしてそんなことを気分的にリアルに話したかと言うと、ある知人の親族が、船底から大勢の人がいできてあっという間に走り去るという光景というのを目撃して、ショックを受けて寝込んだという話が枕。どこだかは言わないでおくが。


でもって、船底の旅の人というのがいなくないというのは小耳には挟んでいた。知り合いの知り合いでその苦労談を結構人びとに語りまわっている人がいるらしいのだ。最初聞いた時、たいした知り合いでもない人びとに語っているということの方に驚いたが。そして、ショックを受けた側の人に心当たりが出来た今は、この落差にも驚く。つまり本人のつもりは、苦労談以外の何ものでもないが、受け止める社会の側にある人にとっては、多分、ある種の崩壊予兆に見えるだろうと言って悪くもないだろう事態だ。想像してみ? が、多分、このことを苦労派は気づいていないだろう。というか、苦労派でもないけどネオコンでもないわ、という人の多くもこれら両極端の話に気づいてもいないと思ったりもする。


まったくイヤな話。しかしもうすでにスキームを本質的に理解すべき時なのかもしれない。もちろん、それへの反意ではなく、対案の提示であっても。


名前にしても、文言にしても、紙の上におかれるにしても、実際にやり取りしているのは、なんでも「ない」もの、すなわち信用の交換にすぎない。時々ある人びとはこれをだから本当に「ない」のだと言ってはばからない。しかしそれは、ごく限られたフィールドで、閉じられた空間 i.e. 法と秩序の中で言っていることに、その人は気づいていない。信用は、あり得るのです。恒常的にあるのでなく。