押さえとしての核兵器所有(是非を言っているのではない)

S. Korea Acknowledges Secret Nuclear Experiments
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A56258-2004Sep2.html


これは痛いよ、Sコリア。
ただこれがどうしてわかったの? という方向を考えたくはなる。


いささか突飛な言い方だが、これを見て、核兵器さえあれば強く出られるというアイデアがどれだけ馬鹿げているかわかると考えてみることは有用ではないかと思う。

アメリカがあらゆる意味で強いのは、核を持っているからではなくてあきらかに少なく見積もっても地域主権だからだし、インドも同様。中国もこういう「押し」を狙っているのだろう。そしてより少ない程度には、そして80年代ならもっと大きなvalueを付けて、日本がもし核を持ったら、というのも同様の「押し」を巡るものだろう(したがって今やってどうなる、だ)。


つまり、概算でいって、帝国主義ではなく帝国である(柄谷行人アーレント言うところによる)とあるゆるい意味で定義可能な場がこれを所有することに意味がある(意味があるという意味は良いということではない)。それに対して周辺の国民国家群が持ったところで、スペシャルなストラテジーでもあって、あるいは短期的で戦域的な問題ならいざしらず、所有そのものが乗数効果的にもたらすものは何もない。せいぜい、危険なヤツだと周辺から見なされるだけだ。これって国民国家群にとっては悔しい事態なのはわかるが、悔しいから悔しいと言っただけではその悔しさが解消されることはない。


[補足:これもなぁ。学校を使わんでくれ、なんでもいいが。ロシアにしろコリアにしろ、なんだろこの符号は
韓国人らが計画持ちかける 北京の日本人学校駆け込み
http://www.asahi.com/international/update/0902/003.html


で、直接には関係ないであろうとは思うが蛇足ながら、上の帝国vs国民国家群モデルで考えた場合、いわゆる言うところの反日教育って、わざわざこのモデルに組み込まれるための心性を養成しているようなものではある。つまり、大きなものには抗してもいい、そうすべきだと考える、その大きなものに日本を当て嵌めている。まぁ、抗することそのこと自体は時と場を限定すればある程度は理解できるが、全面的にそうなってしまったら、自尊心を満足させる一方で、大国あるいは地域主権には文句を言ってもいいという垂れ流し文句系を誘発して、これに歯止めがかからない。自主的に問題を解決するより容易で、感情的な満足は確かに得られるからだ。吉田茂中期の臥薪嘗胆主義がもたなくなった理由も、この感情的な満足への欲求が大きくなっていったことが原因かと思う。東アジアは、アメリカ(西欧)>日本>その他、の向きで二重の帝国網になっていることがやっかいだ。これは捨象された「歴史」によるものでも本質論によるものでもなく、資本主義及び自由主義浸透状況の年期という意味で歴史だ。日本は、アメリカを向いている時には帝国に組み込まれる一方で、地域の中ではその日本そのものが帝国の位置に入っている。私はこの事に気づきながら事にあたった方が、もし自分たちが帝国「主義」に陥りたくないのだったら利口ではないかと考える。これに対する大きなブレーキは、仕方なしなしにでもとにかく他の東アジア諸国よりも西欧の位置に近いのだという事実を受け入れられない2つの方向からの心性だろうか。1つは、攘夷思想としての西欧嫌悪、もう1つは、「同じアジアなんだから」への心理的傾斜。両者に共通しているのは、AとBは同じ人間だが立ち位置によって役割は違うというのがどうしても認められない、これを差別と感じる感性の野放しであろうと私は考える。]