去年の教訓/アルカイダ男再び/ぐらつくなとブッシュが言った日

Soreda2004-04-15

今日こそおとなしく原稿を書こうと思っているのに頭がすっきりしない。ついつい諸々の掲示板に中毒患者のように出かけてしまう。いかん。

で、自分の過去のものを読み返してリズムをつかもうと思っていて、ふと気づいたこと。

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2つに1つしかないのが戦争ではある

議論の結果に相手はない。しかし、現実にその答えの向かう先はあるのだし、それは、サダムというより中東というより、よりによってまず陸続きの隣の大国アメリカであった。しかも、事は戦争、どちらかが勝ってどちらかが負ける、どちらかが殺してどちらかが死ぬという行為の前では、反サダムでないのは反米、親米でないのは親サダムといった見取りに巻き込まれる。実際、戦っている人間にとってはそうでなければならないわけだから、戦時に多くの人が無意識にそこに感覚を合わせようとするのは無理のない話だし、当事者であるならばある限られた局面にあって倫理的だとさえ言える。しかし、カナダが、そして多くの国々が選択しているのは、「反米ではないが、この戦争には参加しない」ということだった。これを相手のある中でどう遂行するかは、頭で考えるよりもなかなか難しい。

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終わらない棒倒し 5回
http://www.shobunsha.co.jp/html/owaranai/05.html

去年、丁度イラク攻撃がはじまった時のカナダの様子を記述したものなのだが、本質的に日本のおかれている「土壌」的心情的状況というのはこういうことではあるのだろう。

よりによってアメリカに歯向かうかもしれない、と思われるものはなんであれ拒否したいとOSが働くから、歯向かうことになるものはなんであれ自分で叩こうとする。それが今ある「いじめ」としかいいようのない「自己責任」論の正体ではないのか。

カナダはこれをどうやってしのいだか。それを考えるために棒倒しを書くんだよ(泣)。

で、とりあえずの今までの状況ではなく論理系の結論としては、「人によるな、問題に集中せよ」じゃないかと思う。誰が言っているかじゃない、何を話しているかに集中しろ、という発想法。

[追記:Small people think who is saying, middle people think what is told, and big people think what the issue is とかなんとか、なんせ、小者は人により、大物は問題を考える、みたいなものすごくはっきりしたパッセージをトロントスターの投書欄で読んだ。去年。戦争は人を考えさせるなぁと感心したのだが、元記事はこの部屋のブラックホールに入っているはず・・・。情けない。

結果として、しかしこういう傾向はアメリカ人には伝わらないらしい・・・ってカナダ人同士が新聞紙上で真剣に語り合ってもいたことも思い出される。5回の中に書いたと、思う。多分。