価値観のすれ違いと書くすれ違い


笑いごとではないんだろうが、しかし、笑いごとだなぁ、とここ数日の朝日の社説を見て、やっぱり笑う。


内閣改造を前に―首相へ贈る「五つの反省」
http://www.asahi.com/paper/editorial20070826.html

安倍ちゃんに反省しろーと申し述べているんだそうだが、他人に反省を求めるという行為、その前にその発想そのものが、私にはとても奇異に感じられる。

他者の行動A、B、Cを批判する、よくないんじゃないか、こうも考えらないのか、あるいは、俺はその見解を良いとは思わない、というのはどれだけ言葉がきつくても建設的な行為だとは思うし、言論機関がやるべき仕事でもあるだろう。が、具体性なく反省を求めるというのは、微妙にそれとは違う。

反省しろ、と親が子供を叱る時、あるいは上司が部下を叱る時、そこでは、何が問題なのかが一応明らかになっている。いや明らかになってない、発信者と受取人の意図が違うからもめるわけだが、ともあれ焦点は決まってる。だからこそ糸口がある。書くという作業はこの糸口を関係者の共通事項におとしこんでいくためにとても有力な手段だ。

が、朝日のはなぁ。まぁこの、第5条「一、おごりを捨てる 」ってのだけでも、ひっくり返っちゃうぐらいに抽象的で、意味がないわけで、それ以上何かいいたい気が失せるのだが、こういうのって、どこで習うんだろう? 朝日の中では、誰かが失敗すると、なぜそれを失敗したのか云々と具体的な点を解明するのではなくて、「お前のおごりだ」といった感想で押す、という手法がデフォなんだろうか? まぁ、メーカーには勤められないよね、この人たちは。役所も、ダメだろうなぁ。


でも、今日のはまだ、自分んちのデフォルトの言語体系がどのへんにあるのかを示しただけだったから、それはそれで勝手にやってなよ、なのだが、

何日たって考えても、インドがらみのこれはいただけない。

 しかし、日本にとって中国が持つ重みは、インドとは比べものにならない。在留邦人でみれば、中国が10万人を上回るのに対し、インドは2000人ほどだ。相互依存の度合いが全く異なるのだ。

中国を牽制するテコにインドを使うような外交は見透かされる。インドにしても中国との交流を深めており、利用されることに甘んじるような国ではない。

首相の訪印―価値観外交のすれ違い
http://www.asahi.com/paper/editorial20070824.html

交流=利用することだ、ってあんたどこで育ったの?という感じも強くする。


首相の訪印―価値観外交のすれ違い、というより、首相の訪印によってさらに鮮明になった、日本における朝日の価値観のすれ違い、という感じだ。個々の価値観はそれぞれだがそこにどうやって共通点を見出して、それをホールドできるかに腐心するってのが、いわゆる民主的手続きを是とする国家群、または国家と地域のベーシックではないのか、など改めて言ってみたい気はする。


ま、しかし、数日たって振り返ってみて、むしろ、こういうところで、日本の(腐っても)主要新聞が自分のとことを軽く見ているとかなんとかいって、食ってかかってきたり、上下意識を見せて怒ったりしないのがインドだ、という事実が明らかになったとさえ言えるかもしれないなどとも思う。


で、はたと気がつけば、しかしながら、実際それはそうだと思う。インド人との関係というのは、損得にしたって、俺は上だからお前折れろ、という手法じゃなくて、もうどうしてそうなのかよくわからんのだが、とにかく理屈があって、その膨大な理屈、河のような理屈の中で互いにおとし所を見つけましょうというのがインド式だろうなとは思う。で、私を含む多くの日本人の場合、そのくめども尽きぬ理屈の前に、あるいはこっちはこれで落ちたと思っているのに次から次から、怒涛ならともかく、小川のようにちょろちょろ出てくる理屈の前に、こんなに面倒ならもう人生これで終りでいいです的に疲労困憊して、茫然と立ち尽くす的展開になることが普通にあり得るという意味で、私たちは気性が合うとは多分言わないが、無条件に上から抑え込まるわけではないから本当は精神的な解放値は高いと言えるんだろうと思う。

どこかで作られた上手いステロタイプの1種だろうけど、国際会議で大変なのは日本人にしゃべらせることとインド人を黙らせること、というのがあると聞くんだが、これはとてもよく出来ていると私は思ってる。


個人的には、インド人を見てると、西洋人って簡単だよなぁと思う。西洋人は絶対空間内の矛盾を突くと止まってしまうという感じ。一見不思議だが、日本人もどちらかといえばこっちだと思う。


それはともかく、今回の日本の事情関しては、実際問題は、おそらく、日本の外務省(の一部)なり、首相周辺がインド側に、前持って、ウチの主要紙が失礼なことを言うことも十分想定できますし、テレビ等の代表メディアは大きく取り上げないことも予想されています。アジアの大国を前に大変申し訳ない事態ですが、そのへんのところはどうぞお含みおきくださいねなどと言っているんでしょう。

でもって、ええ、知ってます、新華社はどこにでもありますからね、日本にもあるってことなんでしょ?私どもはそう理解してましたが、とか言われてたりするんだろうか。


あるいは、ええ知ってます、フリースピーチの国では、時に、メディアで目立った論調というのが
その国の国民のマジョリティを抑えているとは限らない場合があります、というのはそれこそがまさにフリースピーチであることを示しているわけですし、どんな考察を発表したところで罰せられないというのがまさに肝要なわけです。メディアの出方というのがそんなにナイーブな問題ではないことは今日ご承知の通りです。さらには、地域地域、あるいはそれぞれが利害を共にする団体によって各種の傾向を強く持っていることもありますね。歴史的事情もあります、言語的背景もありますし、今現在の経済の状況も無視できません。個人的な伝統もありましょう。様々な理由からともすれば現状正しいとは言えない考察をしている可能性もあるでしょうし、一見すればそうでも、その中に有益なインサイトがあることもあります。人々が異なった意見を持つことには決まった事情などありません。いつでも、それはあり得るのです。

しかしながら、民主主義的にものごとを進めることのベネフィットはまさにここにあるわけです。私たちはこれからいくらでも、その意見、異なった意見をすり合わせていけるわけです、時間はたっぷりあります、例えば・・・・・云々と、ものすごーーーい、気の長い、まさに、多様性そのもののインドの事情から紡ぎだされた時間感覚と政治スケジュールについて滔々と語られていたりするかもしれない。

政府関係者の方、ごくろうさまです。でも、ずっとさらにがんばってください(笑)。
香辛料は飾りではないです。

なにはともあれ、

価値観を声高に唱えるような一本調子の外交は考え直した方がいい。

(上の朝日の社説の結び)


朝日がインド式に対応できなさそうだということだけはわかる。とてもよくわかった。
フリースピーチ&民主的手続きワールドに不適合なのもわかる。いきなり道徳で裁くという世界が好きらしいので。


で、そういう新華社築地の凋落はどうでもいいのだが、残された日本人にとっての問題は、この朝日みたいな、ものすごいご都合主義、相手の立場を考えながら書けない単調さ、要するに「一本調子」によって日本の政治を語ってきた私たちの履歴をどうやって脱出するべきか、どうやったらできるか、ってなことだと思う。言論、言語習慣を整備するというのは時間がかかる。

 成長したら息が詰まるらしいです


NYTのチャイナ公害特集。
http://www.nytimes.com/interactive/2007/08/26/world/asia/choking_on_growth.html#story1

Choking on Growth

が総タイトルで、記事6ページ組にハザードマップみたいなマップ付き。さらには音声もついちゃう。
いやぁ、凝ってる。そうよね、別に新聞だからっていってニュース配信社の短い事実記事ばっかりが脳じゃなくて見せられるように作ってもいいんだからね。こうやって経営危機を乗り切れたらよかったのにね。

しかしこの分離はなんでしょう?
オーニシを挟んで朝日+NYTの連動は確かに今ではよく知られたロンダリング経路になっているのに、一方のNYTには、中国の重要性は他には変えられない、文句は言わさん、的「指導」は及んでいないんだろうか? この特集からは、とても、とりあえず身内で適当に建設的批判を、といった穏当な感じはなくて、深刻に深刻だと言っているという感じがありありなのだが・・・。


深刻といえばオリンピックの文字通りの空気。雰囲気のことでない空気。
半年ぐらい前のテレビで、カナダのシノロジーの専門家だとかいうおじさんが、普通に笑いながら言っていたのが面白かった。

やりますよ、オリンピック。当たり中の工場を止めて、準備してね。僕ね、オリンピックの候補地の選考委員会がある時北京にいたんですよ、その時もね、止めてました。だから同じことするでしょ、だそうだった。

その時はなるほど、としか思わなかったが、だんだん現実に近くなってきて思うわけだが、それで足りるのだろうか。そういえば、オリンピックとくれば観光にひっかけて、となるはずだが、盛り上がってない気もする。ま、今後なのかもしれないが、観客とか確保できるものなんだろうか。いろんな意味で興味深い。