傷つく。はぁ。

わりと驚く。よく考えればそうでもない。


反中画像、米MITがサイト一時閉鎖
http://www.asahi.com/international/update/0508/008.html

 問題の版画は「脱亜」の項目に掲載された、日本兵が抵抗した中国兵捕虜を斬首している場面を描いた「暴行清兵を斬首する図」など。ボストン美術館の所蔵品で、戦争を通じて日本側が中国人への偏見を強めた「戦意高揚プロパガンダ」の一例として、ダワー教授が解説をつけた。

これにチャイナの学生さんたちが抗議してサイト一時閉鎖なのだそうだが、そっかー、清でも駄目なのかぁ。そりゃそうか。でもさぁ、じゃあどうせいっつーのよ、ではある。日清戦争が抜けたら東アジア史も世界史も語れないっしょ。でも、そうか、そこをパスしたいということか。(


でもって、さらに、ジョン・ダウアーぐらいのトーンでも駄目と。


ちなみにこの人、日本ではなぜか完全な反日みたいな扱いで語っている人がいるみたいだけど、そうでもないと思うんだが。ベーシックには、分からず屋のアメリカ人だと思うが、細かい検証をすることによって、たとえこの人がなんと書こうと、その材料を読んで考える人は考えるという題材の出し方をしているので、日本とアメリカの関係としては有益な(どっちかに有意とかいう近眼の見方じゃなくてね)センセではないかと私自身は考えている。総論としてのトーンは、つまんないとは思うが。あ、でもそのつまんないマトメの言葉みたいのだけかっさらってきて日本の新聞が書いたりするから反日屋認定になったのか。なんだかなぁ。


ま、どうでもいいが、学問検証にこの理由はないっしょ。

「中国人の感情を傷つける」などと抗議が殺到したという。


日本人の立場を考えてみてよ〜でしょう。つか、北米にいる私は日本人というより、ドイツ人って気の毒だとかねがね思ってる。どーでもいいようなところまでナチ、全然いらないだろうというところでもユダヤ人の虐殺といったタームおよび映像(かならずしもドイツ軍じゃないつー、まぁその手の映像)がはさまれるフィルムが多すぎる。傷つくだなんつー生易しい言葉ではもはや語れないほど酷い。


それはそれとして、傷つくって、なんともはやなあやふやな言葉だ。だいいち、これほど主観的な言葉はなく、これを評価系にしたらそれはつまりエゴの無制限な拡大なわけで、そうせいと。


それで謝ってるMITっていうのもなんかへんだ。なんかもっとあるんだろう、きっと。チャイナ応援、日本を落とす、の本家つか発信源はやっぱり東海岸だと思うから、ここでクロスになっちょるがやー、というところに泣きどころがあるのではないのかなど勘ぐってみたくなる今日この頃。


あとでじっくり関係資料を読みたい。読みたくはないが、ま、でもなんかそうしよう。

 「日本は侵略戦争を美化している」に脊髄反射しない


下でありがたいコメントをいただきコメントを返したついでに、自分の考えをまとめておきたくなったんでメモ。自分の指針醸成の一貫みたいなノリ。


唐突な入りだが、「日本は侵略戦争を美化している」云々問題というのは、別の一点にフォーカスを持たさないための、一方で効果的な、他方で予想外の効果を示唆するレッド・ヘリング(雑にいえばツリ)だと思う。


「日本は侵略戦争を美化している」という語によってこのキャンペーンが導こうとしているのは、実際にはそこではなく、日本は残虐だ、という印象でしょう。これによって道徳的に、人道的にというパスを導く、と。


構造としては、日本が残虐だったという(時系列無視で)印象を構成した時、「日本の侵略戦争を美化している」、they're trying to glorify the war、というのは、別の意味を持って登場します。あの残虐性を擁護するのか、と。ここで、通常の意味での自衛権なり、憤激でありといった日本側のリアクションはすべて、この意味に呑まれる可能性があるわけですし、現実にそうなってますね(もちろん残虐性浸透いかんですが)。


それに対して、事態は戦争またはその予備状態であった、という見解は(日本語圏では戦争にすでに道徳がからみますからこの文脈をたどるのがむずかしいが)、このパスを粉砕します。なぜなら、それは外交的手段の延長であり、いかなる戦争も当事者は我が方にcauseありと思ってやっているわけですし、相応の事情はあり、また、中世ならいざしらず19世紀においてはそれがある種衆人環視でもあったわけです。ですから、その文脈はある種のきっかけで生きはじめる。そのきっかけが「歴史」なんだと思います。だからこそ、歴史認識というタームが出てくるしここに加重がかかるんだと思います(これを出した時点で心理的には自分のフォーカスがあきらかになってしまっているわけで、ダメじゃん、でもあると思いますが)。


つまり、時系列、あるいは歴史が普通に語られることになることは、このキャンペーンにとっては致命傷だと言えるのだろうと思われます。日清戦争あたりに「歴史的に」フォーカスがあたると、その背景を説明してしまいますので、どういうものであれ、できれば取り上げたくないと思っても不思議はないと拝察します。


そして、このことから、歴史認識をいうタームを使う人々の示唆するところも容易にわかると思います。歴史「認識」を、という意味は、決して、ものごとを「歴史的に」語ることを奨励しているわけではなく、△覦貭蠅?鬚鯑櫃瓩箸いΔ海箸任后2チャンネルのようなものを極端に嫌っているやにみえるのは、たとえどれだけレベルが低くとも(そんなことはないわけですが)、そこが、counter-examineが可能な場、open-examineの場になっているからでしょう。もし歴史に対して真摯に(例えば)あろうとしようとする意味がものごとを「歴史的に」語ることなのだとすれば、open空間に対してアレルギーはないはずです。(程度問題は残るとしても)


と、では「日本は侵略戦争を美化している」をツリにしたキャンペーンは完全に失敗なのかというと、そうでもないのじゃないかと思われ、私が心配しているのはむしろこっちです。この語に対して直接的に反抗してしまう層が形成されつつあるからです。つまり、侵略か否かなどという問題ではなくあれは戦争(wars)だったという地点でおさまらず、侵略戦争という語に抗するあまりに、自衛戦争に加重がかかり、自分たち(の国の過去、ですが)を自分で高く評価しすぎる方に歩む可能性がある、と。これは慢心です。ってのは冗談ですが、過去の行為を一意的に正統化しようというバイアスは、普通の常識でいえば、自己がカラッポである時にいっそう傾くものといえるでしょう。だから、何かむなしい、なにか思うにまかせない、いわゆる不満のはけ口に、「anti-侵略戦争」モードが利用されるのじゃないのか、と。こうなった時、おそらく、ものごとを「歴史的に」語ろうとする派は、多分、自分たちの背中を撃たれる思いをするかもしれません。


しかしながら、素人の私がこうやって考えたりなんかする事態を見ても、このある種の離反は起こらないかもしれない。有効な予防線をはれるし、オープン空間で見ることのできるのは、「anti-侵略戦争」モードへの突進ではなく、むしろ波状的な、抑止、予防線開示の効果のように見えるから。


まとめると、「日本は侵略戦争を美化している」という語に直接的に、脊髄から反射しないことを気にとめておくことはいいことかもしれない。そうではなくて、そうよばれるその状況を語る、解きほぐすことに専心する。具体的には、ふられた時に、自分の指向するもの(歴史を語るのだ、という決意)を念頭において、そうするために効果的なパスはどれなのかを嗅ぎ分けて議論の最初のカウンターを出す、と。捨象しない、BE MORE SPECIFIC!