多様性原理主義

この間も多様性といいつつ排他的な人々の話を書いたが、なにかこの「多様性」という原理を語る、多様性原理主義者とでもいうべき一群が地球上の各地点で観察されている。頭が痛くなる。


手仕事をしていたので(どんなだ)、テレビをサーフして適当に見るともなく見ていたら、大西洋岸諸州のラジオ局の様子をテレビでやってるという妙といえば妙な番組にあたった。テーマは政治。選挙戦がはじまったので勢いそういうことになっているのだろうが、キャスターが、電話の人にいろいろ答えながらおもしろいおかしいことを言うという、ま、北米でよくある仕立てではあった。そして、そのノリも北米でよくあるもの。つまり、キャスターがかなり恣意的に、彼(だいたい男性でかなり乱暴な口をきく)の判断で、なるほどになることもあれば、なにを言ってんだよ、お前、となって、thank youで切られてしまうというやつ。(こういうthank youは気が弱い人はトラウマになるほどイヤなものだ)


で、私が見ていたそれは圧倒的に「リベラル」なキャスターで、自分は、マーチン(現在の首相)には興味はない、俺はトルドゥーのリベラルだ、と何度もいい、ブッシュほど酷い大統領はいないのだとなじっていた。ハーパー(野党保守党党首)はブッシュの子分、小ブッシュだから絶対駄目だ、というのもあっちでもこっちでも言っていた(これって、小泉ポチというのと同じ仕掛けか)。

そして電話をかけてきた人が、でもちょっと今のカナダの姿勢は少しへんじゃないか、アメリカに対して云々と語り出したところが、お前は共和党員なのか、とつっかかり、そういう話は共和党員の中で、テキサスででもやればいいじゃないかとつっかえして、サンキューとなった。


こういうスタイルは、皮肉なことだがアメリカの田舎の共和党オヤジとしてしばしば描かれる。頑固で、柔軟な思考というのはあまりなくて、俺が信じていることを信じて何が悪い! という発想法および表現法。これと同じになっていてどの口で多様性を重んじるトルドゥーリベラルだから俺たちはブッシュとは違うと言うんですかい、と私は思うのだったが、彼に躊躇などありようもなかった。俺はリベラルだから。(後で考えてみると、そのケーブル局はリベラル擁護としての「選挙特集」みたいなものが目白押しのようではあった)


さてしかし、なにごとも合成すれば誤謬はつきもの、ということか、それとも流れとはこういうものかということかとも思うが、選挙戦はなんせ8週間もあることもあり、もしこうした「リベラル」の宣伝がメディア上に行き渡れば行き渡るだけ、実際には、カナダの誇りとでもいうべき本当にリベラルな人々が離反していくのではあるまいか? などと言えなくもないのではあるまいか。いやしかしそう考える私は所詮は外国人で、この国の「保守」とは「リベラル」なのだという点についての覚悟が緩いのかもしれない。どうだろう。ちょっと楽しみになってきた。


これに対して、最も左であるところの、The Economist誌のいう「旧式社会主義者」のNDPは、党首ジャック・レイトンの口調のせいもあるだろうが、冷静。争点を、「リベラル」対ブッシュ(なんなんだ、これは)にせず、ヘルスケアの話を中心に据えている模様。となると、前にも書いた通り、ここは侮れない勢力となる見込みは少なくともキャンペーン前半としては堅い。


とか思っていたら、うわぁああ、また多様性が来た。

フランスを訪問中の中国の温家宝首相は6日、フランスのパリ総合大学で「異なる文明を尊重し、
調和の取れた世界を共に建設しよう」をテーマにした講演を行ないました。
エンジニアの大学と呼ばれているこの大学の1000人余りの大学生を前に、
温家宝首相は歴史と現実の2つの角度から文化多様性の必然性と貴重さを語り、
中国の内政と外交状況及び、中国とフランスの文化交流の見通しについて述べました。

異なる文明を尊重し、調和の取れた世界を共に建設
ttp://jp.chinabroadcast.cn/151/2005/12/07/1@53536.htm



なんでも言ってという感じ。

 スクルーバスの何がいけないのか?


このところ(でもないと思うが)続いている子供に対する凶悪事件を受けて、ではスクールバスがとりあえずいいのではないのか、と私は思うわけだが、議論がどうもそうなっていかない模様。


ノスタルジー
http://eiji.txt-nifty.com/diary/2005/12/post_4aed.html

手を切るから料理をさせない、ではなく、小さいころから多少ケガをするなかで危険と危険を避ける術を体得させてゆく。「子どもだけにしない」「大人が24時間監視を」などという愚かな処方ではなく、むしろ「道草は子ども時代にどれほど大切か」という発想から再スタートすべきです。


これは作家の大石氏のページに引用されていた日垣氏の考えだそうだ。これに対して大石氏が「道草という郷愁」というタイトルをつけて批判されていた。これでは子供の危険回避にならないだろう、と。


道草への郷愁というのはうまい言い方だと思うし、私もちらっとそんなことを思った。子供は子供だけの世界で生きて危険を避ける術を体得するもんだ、みたいな考えから、大人が見ていること、を「監視」と捉え、拒否反応を起こす人がいるんだろうなぁとか思っていたが、まさかほんとにそれを表明する人がいるとは思わなかった。


これって、他人に見られていることをとにかく「監視」と考えるという意味で、ある種コミットメント・フォビアの人の心理的態勢と似ていなくもないかしら、などとも思う。しかし、大人にしても子供にしても、一人だけ、子供だけ、私たちだけ、という世界はありそうでなかったり、なさそうであったりと、実に偶発的なものではなかろうかと思う。私たちだけの世界だわとディズニーランドの真ん中で思いなしたとしても他者があなたたちを見ている。ただそうは思えない、主体的には二人だけだというのにすぎない。どうしてもいやなら引きこもるしかない。通りに出れば人はいるものだし、人の目はどうあれ監視だ。


また、道草というのは、帰るところがあるから道草だ。帰るところがあるのなら、親やその他親族等の想定内での一時的で心理的な逃避なわけだ。監視されているんだけど、子供(または大人)が主体的には誰にも見られてないと感じることができ、なおかつ帰ることが可能な状態。つまり、とっても甘えたというか、甘美な状態だ。


道草への郷愁というより、大人がこれを書くとすれば、「道草への憧憬」とさえ言いたいかも。監視もいやだけど一人もいやと言いたいボク、と。


いや、こんなことはどうでもいいんだが、スクールバスに子供を乗せることのどこにそんなに論争するべきものがあるのか私にはまったく理解できない。一部の大人の憧憬につきあわせて一部の子供のリスクを高めることがそんなに価値のあることなのか?


ちなみに私は、大石氏がこの項でお書きになっていた子供時代とは環境的にはほとんど全く正反対の子供時代を送っていたようだ。一人でとぼとぼ歩く学校の帰り道というのは主体的、主意的には存在したが、なんせ街の真ん中の学校に徒歩5分ぐらいで通学していたので、誰かしら何かしている通りを通り抜けるその時間内にも隙間(誰も見ていない)というのは当然にあるわけだが、それは非常に少ない確率であっただろうと思う。だから牧歌的な感じのする道草というのはほとんど可能でなかった。ただ、それが短調とかつまらないということはないわけで、それはそれなりに、「道草」はあった。友達の家に行って晩ご飯食べてたりとか。


で、スクールバスが導入されるとこうやって親に内緒でどこかに行くという行為の回数が減るのだろう。で、子供たちだけの時間が減る、と。でも、親の目の届くところで子供たちだけのつもりになるということはどうあれあり得るんだし、どうも過保護にすぎるとでも思うのなら、学校から帰ってから積極的に友達のうちに遊びにいかせるとか、泊まり体験をさせるとかいろんな局面を用意すればいいのじゃまいか?


そういえば、このへんの子供たちって、オーバーナイトステイのなんちゃらかんちゃらと(なんと呼んでいるのかよく知らない)、友達のおうちに、お互いにお泊まりして学びましょうみたいなことが結構あるみたいだ。よそのおうちで寝るというのは結構な冒険なわけなんだろう。ウキウキの子供もいれば浮かない子供もいて、そういうのを上手に扱ってくれるファミリーもあれば酷な人々もいる、みたいなことをわざとやってるんじゃまいか。こういう局面で社会的スキルを獲得させて、自分の親の価値観内だけで完結することを避けているということなのかななど思う。


道草って、大石氏のようなリアル体験ありの「郷愁」ならいいけど、意外とそうではなくて人工自然主義あるいはご都合自然主義だったりするのかもなどともちょっと思う。ア・ラ・ルソーかも。