馬鹿なの

寒い。もう半袖じゃ夜を過ごせない。蝉が鳴いてちょっとずつ夏が終わるというそういう余韻はないのかこの大地! という感じ。気温もついに20度を下回ってしまった。結局1回も着なかった夏物のワンピースとかある。毎年(泣)。そうなる最大の理由は人生の大半を日本で育っている私の衣料収集動向は量的には春>夏>秋だからなのだろうと思う。夏物は一杯あっても困らない、みたいな無意識の思い込みもある。だから春先に日本に帰った時も冬物になんて目もくれず夏物をひっつかんで帰ってきた。馬鹿だった。しかし毎年やってる。さらに馬鹿だ。


と、そんなことはいいのだが、ネットをつらつら見回るに、小泉を信じるものは馬鹿と呼ばれるの? なんかそういう感じの言辞というよりなんてかこう、唾はいてるみたいな書き込みが結構目についた。ふ〜ん。

集団知の暴走は歪曲報道と「知識人」が原因

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050823


毎度まじめで示唆に富むエントリーを起こしてらっしゃる「圏外からのひとこと」紙の本日のエントリー。昨日の分からあわせて非常によく見てらっしゃって非常に的を射た論考と拝察いたしました。


上手なお話を下手にまとめる愚をあえて冒せば、「集団知」の位相が変わったということなのだろうと思う。でも別にこれは新しい話ではなくて、もうずっと前からそのように受け取られていたのにもかかわらず、それを言語化するポジションにある人たちが頑として受け付けなかった。従って言論上認知されないシステムになっていた。しかしそれはもう動いているってことかと思った。


で、集団とくれば、衆愚に陥る、全体主義になる、みたいに考える人たちがいて、氏の論考もそれについて少し遠慮気味に考察をされている。私としては、上のように考える筋道はある程度わからなくはない、が、そういう言辞を簡単に吐く人々はひとつ大きな忘れものをしている、などと言いたいと思う。つまり、誰かがまとめて、これが全体の言辞だと表示しなければ、全体主義なるものは機能しない。いや、存在しないと言ってもいいかもしれない。全体主義とは多分、パブリケーションの問題なのではないのか。そして、全体主義が苦しいと感じるその人の体験もしくは想像(日本語を読んでいるたいていの人は経験していない)は、おもに異なった言論を禁じられること、異なったことを思いつくことへの恐怖こそがその主たる原因ではなかろうか。でなかったら、一体何が怖い?

衆愚政治から全体主義への道は、マスコミの歪曲報道や権力によるメディアの恣意的な利用が主たる原因だと思います。私は「知識人」という言葉を「自分が大衆より良き人間と考える人」という意味で使っていますが、森田実氏のような「知識人」は、そのようなマスコミや権力と意識的無意識的に共犯関係に陥りやすいのでしょう。

まさに、と思う。
率直にいえば、社会的言語に習熟していない人が多い社会にあってはこれら「知識人」なるあたかも「導師」のような人にも役割があるんだろうが、ある社会が成熟し、あるいは変革の後にその変革を自らのものとしてしまった時、導師は、あるべき方向を示す人ではなく、群れの中の単なるリーダーになっていくしかないということじゃないのかな。ある意味で、神の代理人は不要だが牧師はいいよ、というのと似てる。

 苦しい話だ


中国兵「百人斬り」:原告の請求を棄却 東京地裁
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050823k0000e040055000c.html


棄却の理由はなんだろうと思って読んだのだが、

土肥裁判長は、記事は2人が記者に「百人斬り」の話をしたことが契機となっていることや、百人斬りの真否が歴史的事実として定まっていないことなどから「虚偽であるとまでは認められない」と判断。さらに、毎日新聞社については、提訴が記事掲載から20年を超えていることから、損害賠償請求権が消滅する除斥期間を経過したと認定した。【


後半は、今後一切過去の戦争の責任の話なんかすんなよ、毎日新聞、ってだけで御終いなのだが、前半の意味がよくわからん。歴史的事実として定まってるわけじゃないから虚偽ではない。ざっくり言えば、別にみんなが真実だなんて思ってる話じゃないんだから嘘をついたとはいえないでしょ、ってことか。口裂女がいるなんて誰も信じていないんだから、口裂女の噂を広げた人には責任ないでしょ、みたいな。


がしかし、当のホンカツ氏は、

これに対し、本多氏は「全く当然の判決。もともと歴史上の事実で、疑問の余地はない」と淡々とした表情。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050823-00000036-jij-soci


これって、かみ合ってないと思うんだが。一方は他方が事実だと言い張っているから訴訟を起こした。判決は、ま、事実とはいえないですね、だった。すると他方は、ほうら事実だと言い張った。これって、何?



[捕捉]
冷静に考えれば、裁判長の言いたいことは百歩譲れば理解できないことはない。
事象Aは審議の結果あるとは言えなかった。
あるとはいえないとは、「ない」を示唆することが世間では一般的な認知法だが、彼(ら)はそれをないとも証明できないんだ、と考えた、と。

だから俺はAをないとは言えないので、Aを描いて広めたaを嘘つきだとはいえない、「虚偽であるとまでは認められない」と。


いわゆる悪魔の証明というやつだが、こういうのを裁判所が採用するというのを私は迂闊にも知らなかった。今後は気をつけて生きていても、ものすごいことに巻き込まれる可能性を持った国に生きていることを自覚せねばなるまい。


なぜなら、これがたとえば、事象Aがもし、DはEに金を貸したか否かだった場合には、帰結は、貸した事実があるとは言えないということは、ないとも言えない、となる。この裁判長の考え方を敷衍した場合は、どっちとも言えないからEは金を返せ、もあり得る。ほんまかいな、だがそういうことだ。


そういうことなのはわかったが、しかしこれでいいのか?という点については私はいいとは言わない。


裁判長の思考方法はとりあえずわかった。しかしわからないのはホンカツだ。判決理由聞いてるのか?だ。
判決理由からは、あるとはいえない、そして、ないともいえない、事実は空です、みたいなものだ。だからホンカツじいさんが誠実に論理的であろうとするならば、俺には言えるものはありません、なぜならそれは空だからです、だ。


しかしじいさんはそれを「ある」、絶対に「ある」(事実)と読む。
「ない」とはいえないんだから、「ある」んですよ。


幽霊がいないとはいえないでしょ、だからいるんですよ。
借りてないっていえないでしょ、だからあるんですよ。
傷つけてないっていえないでしょ、だから傷つけたんですよ。


まぁ、ホンカツ氏はどんな言辞が来ようともぶっちぎりで、あれは事実だと言い張るだけなのだろうが、冷静にロジックを見ていくと、ただの詐欺であることをただ現してしまっているようにしか見えない。


と書いてきて思ったが、もし裁判長が自分で、まったく苦し紛れなんですよ、あはは、とどこかで思っているのならそれはそれでいいのだが、もしそうでないのならそれなりに思想背景のある人なのではあるまいかなど思わないでもない。そっちの方がやだ。